海まで日記

おなかのなかの声を聴く。ごく私的な、習慣と実験のためのメモ書き。

怒りの成分は

「怒り」の成分は「寂しさ」だと聞いたことがある。
なぜ怒っているのかというと、その理由は寂しいからだと。
自分に置きかえても、そうだなぁと思う。
「なんであの人は!」という怒りは、
「なんであの人は私に◯◯してくれないんだ」
「なんであの人は私に◯◯をするんだ」という風に続く。
確かにそれは寂しさがもとになっていると言えるかもしれない。
つまり、自分のことを大切にしてほしいという感情が、
「怒り」という感情表現で表れているように思う。

 

みんな、誰だって自分のことを大切に扱ってほしいのだ。

 

ということは、なんか最近イライラと怒りっぽいというのは、
最近さみしいということあるし、
怒りっぽい人というのは、
寂しがり屋だということだ。
自分だけでは自分の心を満たすことができない、
誰かに満たしてほしいという想いが強い(強くなっている)ということか。

 

そういえば、友人に最近教えてもらったブログ
kalokalohouse/saponeria'owner 日記ノヨウナモノ)がある。
ブログのなかで著者である木村緑さんは、
「誰にもひとり分、ちゃんと孤独がある」と表現する。
そして、こんな風に綴っている。

 

ーーー
この孤独を引き受けることが喜びの最初のような気がする。
孤独を引き受け、それを愛することで、世界は目が覚めるように美しくなった。
自分と話をする時間が増えたせいだ、きっと。
れいね、という私に、本当にね、ともうひとりの私が答える。
ーーー


他者から大切にされ、満たされたいという想いは私のなかにしっかりとあるし、
消えることのない感情だろうと思う。
私を大切に思ってくれている人がいることももちろん知っている。
にも関わらず、「大切にされたいんだー」という想いは、
外に外に向けてしまうと限りがなく、
現実にはあらゆる人から大切に思われるなんて
無理な話であるとわかっていながら、求め続けることになる。


木村緑さんはそうではなく、孤独を引き受け、それを愛し、自分と話をしている。
つまり、自分で自分を、自分の感情を、大切にしてあげているということだろう。
「そうか今自分は寂しいのだ」と、そう認め、私と私が語り合う。
そうすることができたら、寂しさからくる「怒り」は消えてなくなり
彼女のいうように、「世界は目が覚めるように美しく」なるのかもしれない。

 

あぁ、そうあってくれと思う。
そして、同時に私にできるだろうかとも。
でも念ずるように緑さんの言葉を思い出そう。
だって、私も「世界を目が覚めるような美しいところ」にしたいのだ。
怒りや寂しさに支配されるような世界でなく。