海まで日記

おなかのなかの声を聴く。ごく私的な、習慣と実験のためのメモ書き。

波にゆだねる

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久々に、海まで。

波に乗る人たちをぼんやり見ながら、

海のなかに入り、波に身をゆだねるときのことを思う。

 

海は入ったばかりの何分かはとても怖い。

波に翻弄されないように、身を固くする。

でも次第に、観念したような気持ちになり、

波に身をまかせはじめる。

すると次第に海と一体になったような

なんとも言えない心地よさがやってくる。

 

 

それは、何かに似ている。

 

いつもと違う場に身を置く時は

いつも少し緊張する。

自分の感情がどこにどんなふうに動くのかちょっと怖い。

でもその感情の動きはそのまんまにして

あらがわず、ただゆだねることができたら

それはとても気持ちのいいことだろうなぁと。

 

       *

 

“人の話をきく”ことが、私のしごとの重要な部分であると気づき

それについて学ぶ過程で驚いたのが

人の話をきくためには、まずは自分のおなかのなかにある感情に触れ、

味わう必要があるということだった。

そして、その場に“ただいる” こと、

相手を主体にしてきくことの難しさを知った。

 

 

自分のその日の具合によっては、ぜんぜん“きく”身体になれない。

 

でも海を見ながら散歩をするうちに

海に、波に、身をゆだねることは

ただそこにいて“きく”ことにちょっと近いのかも。と思ったりした。

 

 

       *

 

 

海まで歩くアイデアは、悪くない。

身体を、こころを、こわばらせず

そのまんま“ただいる”ために

散歩は、海の景色は、

いい作用をもたらしてくれるみたいだ。

 

 

 

怒りの成分は

「怒り」の成分は「寂しさ」だと聞いたことがある。
なぜ怒っているのかというと、その理由は寂しいからだと。
自分に置きかえても、そうだなぁと思う。
「なんであの人は!」という怒りは、
「なんであの人は私に◯◯してくれないんだ」
「なんであの人は私に◯◯をするんだ」という風に続く。
確かにそれは寂しさがもとになっていると言えるかもしれない。
つまり、自分のことを大切にしてほしいという感情が、
「怒り」という感情表現で表れているように思う。

 

みんな、誰だって自分のことを大切に扱ってほしいのだ。

 

ということは、なんか最近イライラと怒りっぽいというのは、
最近さみしいということあるし、
怒りっぽい人というのは、
寂しがり屋だということだ。
自分だけでは自分の心を満たすことができない、
誰かに満たしてほしいという想いが強い(強くなっている)ということか。

 

そういえば、友人に最近教えてもらったブログ
kalokalohouse/saponeria'owner 日記ノヨウナモノ)がある。
ブログのなかで著者である木村緑さんは、
「誰にもひとり分、ちゃんと孤独がある」と表現する。
そして、こんな風に綴っている。

 

ーーー
この孤独を引き受けることが喜びの最初のような気がする。
孤独を引き受け、それを愛することで、世界は目が覚めるように美しくなった。
自分と話をする時間が増えたせいだ、きっと。
れいね、という私に、本当にね、ともうひとりの私が答える。
ーーー


他者から大切にされ、満たされたいという想いは私のなかにしっかりとあるし、
消えることのない感情だろうと思う。
私を大切に思ってくれている人がいることももちろん知っている。
にも関わらず、「大切にされたいんだー」という想いは、
外に外に向けてしまうと限りがなく、
現実にはあらゆる人から大切に思われるなんて
無理な話であるとわかっていながら、求め続けることになる。


木村緑さんはそうではなく、孤独を引き受け、それを愛し、自分と話をしている。
つまり、自分で自分を、自分の感情を、大切にしてあげているということだろう。
「そうか今自分は寂しいのだ」と、そう認め、私と私が語り合う。
そうすることができたら、寂しさからくる「怒り」は消えてなくなり
彼女のいうように、「世界は目が覚めるように美しく」なるのかもしれない。

 

あぁ、そうあってくれと思う。
そして、同時に私にできるだろうかとも。
でも念ずるように緑さんの言葉を思い出そう。
だって、私も「世界を目が覚めるような美しいところ」にしたいのだ。
怒りや寂しさに支配されるような世界でなく。

 

 

「きょうはこういう日」一昨日のこと。

「きょうはこういう日」と思うことで、
自分をなぐさめたり、戒めたりする日がある。
「きょうはホームに着いたとたん電車が行っちゃう日」とか、
「つまづいたり、角にぶつけたりする日」とか。

きょうは間違いなく「隣の席運がない日」だった。

ランチのタイ料理やさんでは、
3人組の年配の女性が誰かのお葬式のやり方ついてずっと文句を言っていた。
お茶に入った喫茶店ではママ友同士が
子育ての考え方があわないママについて大げさに憂いていた。

そして今待ち合わせで入ったスタバではー。
占いなのか宗教なのか、何やら曼荼羅のような紙を広げ、
魂の成長についての話が始まった。
神妙な声で「なんであなたには全部わかってしまうんだろ」とか言っている。
もちろんなんの話をするのもその人の自由だし、
「きょうはこういう日」なのだからしかたがない。
でも自ずと耳を持っていかれて本に集中できないから、
イヤホンをしてそちらをみないようにする。
すると今度は何やらいい匂い。いい匂いすぎる。
曼荼羅の二人がアロマの小瓶を木箱からズラリと取り出し、
一瓶ずつ匂いを確かめているのだ。
耳は閉じられても鼻は無理〜。。
ほかの人の反応は?と、前の席に目をやったら、
おばさん二人がミカンを食べていた。

うん、きょうはこういう日だ。

目を開く。

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暖かい1日。なんとか時間をつくって海によってから駅へ。
海まで散歩をしようと決めて2日目でやらないわけにいかない。
今朝は昨日の雨で、黒く湿った砂浜。男性がふたりヨットを用意していた。
ちょうどこれから海へ出るというところ。
ちらりと見ると、ヨットは思ったより小さい。
あの大きさで、海へと漕ぎ出す。
気持ちがいいだろうし、恐くもあるだろうなと思う。


急いでいたので、海から駅までgooglemapを睨みながら早足。
引っ越して2年なのに、このあたりの道は未だに迷う。
わかった気になって、ちゃんと見ていないからだ。
ちゃんと目を開いていないと新しいものは見えない。
わかったようでわかっていない。
なんて思いながら、わしわし歩く。

 

たぶん、私は怒っていて、歩いていてもその気配が離れない。

でも歩きながら、ふと、そうか怒っているというか閉じているんだなということに気がつく。
体をこわばらせて、怖いことが起こらないように。ひどい目にあわないように。

閉じていても、見えるものは見えない。
怖くても、開いていかないと、新しいものは何も見えないんだな。

海まで

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海まで歩いてみたらどうだろうというアイデアが浮かびました。

ちゃんとひとりになってみようと思ったのです。

もっと言えば、自分自身とふたりきりの時間をもたなくてはと。

おかしな言い方かもしれないけれど、

頭のなかの声をだまらせることばかりして、

自分自身の声に耳を傾ける時間をもてていない、

自分自身と一緒にいることができていないと感じたのかもしれません。

そして、それは少し問題だなぁと。

できるだけ朝、海まで歩いて自分とふたりきりになってみる。

音楽やラジオを聞きながらでなくて。

ただ、海まで歩く。

まあ、それは散歩では?と言われたら、散歩です。

海まで散歩、まずはやってみようと思います。